聖地巡礼
僕らふたりは電車の中で揺られていた。
今日は少し特別な日で、一緒に出かけることになっていた。ちょうど2回目の乗り継ぎを終えたところ。乗り継ぎはこれでおしまい。ここから目的地のある終点まで10駅。長く使われてきただろう地下鉄の構内たちは、昭和の風景を幾つも残している。普段乗ることのない路線。今日の場所へ行く以外には使うこともなければ、その目的でさえ4年に1度だけなのだ。とはいえ、全く乗ったことのないわけではない。ゆえに込み上げくる気持ちは真新しさよりも懐かしさが強い。
僕も妻の佐紀もどこか神妙にしている。今から行く場所は8年前、僕らふたりが初めて対面した場所だ。埋立地に建てられたライブハウス。ZEPP OSAKA。今はもう閉館し、ライブハウスとして機能はしていない。それでも足を運ぶのは思い出に浸りたいから。それと、僕らふたりの、おそらく今よりも、純粋でひたむきだった祈りの残滓がずっとそこに居続けているように思うからだ。前に行った4年前も、逢瀬当時の思念の粒子が密度高く一帯を漂っていて、包み込むように僕の肌を撫でたのだ。もちろんこれは思い込みに過ぎないのだけど。
駅を降りると海が見える。海辺の風が手荒く僕らを歓迎する。佐紀は肩をすくめ眉を寄せて僕を風除けに使った。すぐには目的地に行かず、僕らは4年前と同じように海沿いのデッキのような道をまず歩いた。
釣りをしている人が数人いるだけでひと気はほとんどない。1本内側の道に入ると釣り人からも離れるのでますます寂しくなる。埋立地だから仕方ないのか、イベントを催すことのある建物も平日だからか静かで、行き交う車も運搬系がほとんどだ。何よりも街中では視界に入らないことはまずないぐらいに乱立しているコンビニエンスストアが、駅付近にしかない。街中とのその差が強い違和となって、まるで異世界に紛れ込んだかのように錯覚する。
歩き進むと、川が流れていた。そういえば海辺の道は川が流れていないと不思議に思い調べてみると、川は地下を潜って海へ流れているようだ。埋立地ならではなのか。その川は高台に建てられたZEPP OSAKAのすぐ下まで辿れる。僕らはこの川沿いの道に折れることにした。川沿いの道には小洒落たベンチや外灯が設備されていた。舗装もアスファルトではなくタイル張りになっている。
ZEPP OSAKA。8年前、佐紀がここでライブコンサートをしていた。僕は観客だった。入場時は高台から階段伝いに下りて今歩いているこの川沿いに並んだのだ。あの時の景色や胸の高鳴りを忘れることはない。その過去の記憶と現在の景色がふと重なった。到着したのだ。背後にある階段を登れば、コンサートホール ZEPP OSAKAが見えるはずだった。少し呼吸を整え、佐紀を前にして僕らは階段を登った。
先に階段を登りきった佐紀はZEPP OSAKAを前にして口を開けたまま呆然としていた。そのまま数歩前に歩いて僕の視界から消えた。船の汽笛が風に運ばれてきた。
ZEPP OSAKAは運営を終了していただけではなく、取り壊されていたのだ。ZEPP OSAKAのあった場所は更地となり砂地が剥き出しになっていた。僕は在りし日の風景を懸命に探していた。ファングッズはここで売られていた、グッズリストはここに張り出されていた、等々。
「先生」
弾むような愛らしい声が後ろから僕を呼んだ。懐かしい呼び方だ。僕は佐紀に5年前までそう呼ばれていたのだ。今は「おっちゃん」と呼ぶ。声の方に振り向いたものの、突然のことに僕は返す言葉を選びきれずにいた。佐紀はまだ残る工事用の金網に指を掛け、今度は寂しげに呟く。
「久しぶり……なのにね。変わっちゃったよね。ここも」
「ああ、そうだね。閉館していたのは聞いていたけど、まさか取り壊しまでしていたとは」
僕がどうにか紡ぎだすことができた言葉がこれだ。
「夕方には帰らないといけないよね。何時ぐらいまでいられるのかな?」
「4時半だから、あと3時間ぐらいか」
「結構……短いね」
「うん。その代わり誰にも邪魔はされないよ」
「邪魔されないのは当然じゃない」
「いや、人が少ないという意味でさ」
佐紀はチューブトップの黄色いシャツに迷彩柄のパンツとキャップ、腕には黄色のミサンガを着けていた。今年で21歳になる女性の衣装としてはセンスが幼く思う。
「とりあえず歩こうか」
僕は佐紀の手を半ば掴むように繋いだ。佐紀は照れくさそうにしていた。
以前来たときは、前にある大通りに何件か露店があったがZEPP OSAKAが取り壊された今ではそれもない。懐かしいのだけれど、寂しさのほうが大きい。ZEPP OSAKAがなくなったというだけで、この埋立地には何もかもがなくなってしまったかのような気がした。それでも佐紀はよく笑った。上の歯と下の歯をつけたまま口を横に少し長く開けて、佐紀の機嫌がいいときの笑う仕草。8年前から変わらない。歩調を揃えて歩く。僕は佐紀の前で寂しさを努めて出さないようにした。
駅の方へ向かった。もちろんまだ帰らない。数少ないコンビニエンスストアがあるからだ。もっと洒落たところへ足を運んでも良かったのだが土地勘がないのでどこに何があるかわからないし、何よりも僕は貧乏である。佐紀も贅沢は言わなかった。
コンビニエンスストアには土地柄かオープンテラスがあってテーブルが三つ用意されていた。ひとつは運搬車の運転手であろう人が3人で使っていた。申し訳ないと思いつつ、僕はその隣のテーブルに座り、ビールで喉を潤した。佐紀は色気より食気のようで、パンを両手に持って漫画のように齧り付いていた。佐紀は食べることを休まないまま話しかけてくる。パンの屑が口からこぼれるのもお構い無しに。
他愛のない会話、何度も話したことのある思い出話をする。それで十分満足のように、佐紀は笑った。ビールが空になった。
「どこか行きたい所考えてきたの」
南へ向かって歩き始めてすぐに佐紀は訊ねてきた。
「かもめ大橋に行こうと思う」
「ええ! あんなところまで!」
「そう驚くことでも、あ」
「ん?」
「まあいいじゃないか。ちょっとしんどいことをした方が思い出になるものだよ」
「うーん。仕方ないかあ……それに」
「それに?」
「先生、言い出したら聞かないもん」
「嫌か?」
「いや、いいよ」
「別に佐紀が行きたいところでも構わないんだよ?」
「ううん、先生の行きたいところに行きたい」
「そうか」
かもめ大橋に行くにはまず今いる埋立地のもうひとつ南の区画に行かなければならない。その区画の西側にも区画があって、そこに架けられているのがかもめ大橋だ。かもめ大橋を渡りきったところには海水を汲み上げた人工の市営プールがあったのだが、老朽化と経営難から今は閉鎖されている。
なるべく海沿いを歩こうとしたものの、埋立地の南側は工場が海に隣接していて僕の思いの邪魔をした。車はそれなりに行き交えど歩く者はほとんどいないのだろう。歩道は雑草で荒れ放題になっていた。佐紀は楽しかっただろうか。
工場の立ち並ぶ場所を抜け大通りに戻る。目の前を高速道路が次に行く区画へと延びている。徒歩で渡れるのか不安だったけれど、高速道路の下には一般車道と、自転車でも渡れるようスロープ付きの階段が備わっていた。階段を登りきると平らな道が少しアーチ状になって100メートルほど続いている。佐紀が思いがけないことを口にした。
「うちが行けるのもこの橋の真ん中までなんだ」
今日僕が言葉を失うのはこれで何度目だろう。
「ありがとう、先生。今日はとても楽しかった」
「いや、まった。その」
どうやら佐紀はこの区画から出れないらしい。ならばなぜ僕の予定に従ったのか。帰るには、一緒にいるにはまだ1時間以上残っている。問いただした。すると、楽しいから、楽しすぎて、これ以上一緒にいると僕を帰したくなくなってしまうからと。
「それに……また会えるんだし」
「会えるといってもまた何年も先になるんだよ?」
「うん。でも、会えるでしょ?」
「ああ。次は2年後かな」
「え?4年後じゃなくて?」
「うん。2年後はちょうど10年だからね。特別」
「本当に!? やった」
最後の最後、佐紀の言葉が弾んだ。僕らは橋の真ん中まで歩き、ガードレールの2段鉄パイプ下の段に腰を掛けた。
「良かったら残り時間ずっとここにいようか?」
「いいよ、かもめ大橋に行くんでしょ?」
「それはまた日を改めればいい」
「そう言って、結局行かなかったり」
「先生のことよく分かってるじゃないか」
「へへへ」
「じゃあ先生。行って」
「ああ、わかった」
「後姿、ずっと見てていい?」
「いいよ」
「先生は振り返らずに行ってね」
「わかった」
「じゃあ約束」
佐紀は小指を上に向けて僕の前に差し出してきた。
「次は2年後に来てくれるんだね」
「ああ。そっちも約束だな」
僕は佐紀に背を向け歩き始めた。相変らず強めに吹き付ける風に、船の汽笛がまた運ばれてきた。
高速道路下の歩道は幅もあり、歩きやすさが工場地帯のそれとは雲泥の差だ。風が吹いてそれほどの暑さではなかったものの、潮風自体が体力を削ったのかもしれない。疲労が蓄積されつつあるのがわかる。
「あ゛ぢぃよ〜」
「もうちょっとだ。頑張れ」
「おっちゃん。かもめ大橋、本当に徒歩で渡れるの? もし渡れなかったらアレだよ?」
「大丈夫。さっきスマホで調べたから」
アレとは何だ。とは聞かず、そろそろ疲労の限界が近づきつつある佐紀を励ましつつ答えた。かもめ大橋が見えてくる。
かもめ大橋はバイクで何度か渡ったことがある。高さがあり、頂上部付近からの景色がきれいだったのを憶えていた。その記憶は間違いではなかった。頂上部へ来て、佐紀の顔が綻ぶ。一面の水平線というわけにはいかないが、見応え十分だ。
「わぉー」
「来て良かっただろう?」
「うん、許す」
「(許すて……)もし良かったらこのまま下りきって先端まで行ってみる」
「何? おっちゃん、うちとヤるの」
「いや、なんでもないです。帰ろう。うん。少し休憩したら帰ろう」
ひとしきり目の保養を終え、来た道を戻る。最寄りの駅はそれほど遠くない。僕は佐紀に確認しておきたいことがあった。
「ところで佐紀ちゃん」
「はいはいなんでしょう」
「今日ずっと、おっちゃんと一緒にいたよね」
「はぁ!?」
「あ、いや」
「ずっと一緒に歩いてたじゃん。ZEPP OSAKAが無くなってて、工事現場みたいになってたでしょ」
「うん」
「んで、そのあとコンビニに行って店の前のテーブルで食事したじゃん。おっちゃんビール飲んでたじゃん」
「そうだったね」
僕は白昼、夢でも見ていたのだろうか。
「おっちゃん。それよりさ」
「はい」
「かもめ橋に行く前にもうひとつ橋を渡ったでしょ」
「うん」
「あの橋の真ん中で、小学生か中学生ぐらいの女の子が泣いてたよね。あの子、どこかで見たような気がするんだよなあ……それに、迷子かもしれないから声掛けようと思ったんだけど、おっちゃんその子を無視してどんどん歩いて行くんだもん」
「そんな子、いたっけ」
「いたよぉ! 今日のおっちゃんなんか変だよ。いや、いつも変だけど」
「……がおー!」
「ぎゃー!」
「佐紀、今晩、覚えておくように」
「とか言って結局何もしないくせに」
「よくわかってるじゃないか」
「へへへ」
駅に着き、路線図を確認する。上り下りどちらに乗っても帰れるのだが、来るときに降りた駅を経由する方が良さそうだ。今日歩いた道をほぼ戻ることになる。電車は鉄の車輪ではなく、自動車のように空気の入ったタイヤを履いている。ゆえにレールがない。初めて乗る路線は旅の高揚を連れてきてくれた。同時に、傾きはじめた陽が、旅の終わりが近いことを告げてくる。
電車は高速道路の下を走った。区画を跨ぐとき、電車は今日渡って来た橋と並んだ。橋の中央には、欄干に肘をついて海を眺める、迷彩柄のパンツを穿いた女の子の後姿があった。通り過ぎてゆく。僕は彼女の後姿を、見えなくなるまで眺めた。
「2年後か……」
2年後には、ZEPP OSAKAの跡地には何か建っているだろうか。窓はもう空だけを写している。ふと肩に重みがのしかかる。佐紀が隣りで、静かに寝息をたてはじめた。